【尋問に立った原告27番さん(期日後の記者会見にて)】
2024年8月7日(水)、HPVワクチン薬害東京訴訟の口頭弁論期日が開かれ、原告32番さん、27番さん、52番さんの本人尋問が行われました。
前回の本人尋問期日と同様、多くの方が傍聴やリレートーク、報告集会に駆け付けてくださいました。
まず、32番さん、27番さん、52番さんが尋問で話した内容の要約をご紹介します。
===原告32番さん本人尋問
―ワクチン接種前は勉強もスポーツもエレクトーンも頑張っていました
小学生のころは、勉強も体を動かすことも好きで、水泳やサッカー、エレクトーン、英語を習っていました。中学生のころは、部活にも入っていたバトミントンの練習を頑張っていました。また、勉強も好きで中学3年生のころは、学年で1番になったこともありました。
―ワクチンを接種後、身体がおかしいなと思うようになりました
接種後、頭痛が頻繁に起きるようになりました。そのほかにも足の痛みや腰も痛むこともあり、学校を休むこともありました。また、中学3年生の冬ごろには、全身のだるさもあって、勉強に集中できなくなりました。
―足や腰の痛みは高校入学後も続きました
高校に入学してからも足や腰の痛みは続いていたし、身体のだるさもありました。夏休み以降は少しずつ学校を休むようになり、10月以降は保健室で過ごすことも増えてきました。
―高校生活に影響がでました
身体を起していること自体がだるくて、授業中に座っていることも苦痛でした。身体のだるさは、地球から引っ張られているような感じ、身体が沈んでしまった方が楽だという感じで、何かをしようという気にはなれませんでした。このことは、親や担任の先生に信じてもらえず、怠けているように思われてつらかったです。
―自分に失望し、責めるような気持ちになりました
足や腰の痛み、身体のだるさの原因がわからず、やる気を出さないといけないと思っても体がついてこなくてどうしようもなかったです。想像していた高校生活からどんどん離れた生活になっていき、自分に失望するようになりました。
―留年といわれすごくショックを受けました
学校の出席日数が足りなくて留年になると言われました。留年は嫌ですし、恥ずかしいなと思い、通信制の高校へ転校を決めました。転向後、はじめのうちは週1回の登校日には頑張って登校していましたが、高校3年生の2学期からは、身体がだるく登校も難しくなってきました。
―予定していた国立大の受験をあきらめました
物忘れがひどく、約束を忘れたりすることも多くなりました。教科書を複数回読まないと理解できないこともありました。そのような状況でしたので、高校在学時の国立大学への大学受験はできずに、1年浪人し、私立大学へ入学しました。
―大学入学後も身体のだるさや痛みは続きました
体力が続かず、授業が終わった後にはすぐに自宅に帰っていたので、サークル活動はできないですし、友達と遊びに行くこともほとんどできませんでした。
―就職活動では不良品を売り込むような気持ちになりました
就職活動のころも体調が万全ではなく、また、アピールできるような充実した学校生活ができていないこともあるし、健康な状態ではない自分を不良品のように感じ、不良品を売り込むような気持ちで面接を受けていました。
―人生にとってとても重要な時間を失ったことをわかってほしい
もしワクチンを打たなければ、こういう風になっていなかったら、私は、浪人をしてなかっただろうし、大学院にもいっていなかったと思います。兄弟がたくさんいる一番上なので、両親にはお金や負担もかけたと思います。症状が理解されないことがつらかったです。今でも、高校をやめたというと理解されないことに悔しい思いをすることがあります。高校生活、大学生活が戻ってこないです。友達と遊んだり、人間関係を築くこともだるさのせいでできなかったので、悔しい思いをたくさんしました。人生にとってとても重要な時間を失ったことがつらかったです。
===原告27番さん本人尋問
―ワクチンを接種する前は健康な子どもで、スポーツが大好きでした
小学生のときは病院には年に数回、風邪の症状で診察を受けたくらいで、学校を病気で休んだことはほとんどありませんでした。
小さい頃からスポーツが大好きで野球も習っていました。野球チームのキャプテンもしていましたし、学校でも児童会長をするなどみんなのリーダーのような役割をしていました。
―ワクチン接種の後、身体への強い痛みや頭痛、異様なまぶしさを感じるようになりました
小学6年生の頃サーバリックスを3回接種しました。1回目接種後は接種した箇所が強く痛み、赤い腫れと痒みがでました。
2回目の接種後にはそれに加えて光が異様にまぶしく感じるようになり、目の奥に突き刺さるような痛みがありました。頭の頂点に鋭い痛みを感じたり、吐き気を催すような強い頭痛もありました。
3回目の接種後は足や膝から始まり肘や腕など身体のあちこちが針で刺されるような痛みだったり、神経を握りつぶされるような痛みがあり、痛みで動けなくなることもありました。指先の痛みで箸が持てないこともありました。
―中学の時には通学や体育の授業、部活動も大変でした
中学2年の頃には耳がズキズキしたりゴーゴー音が鳴ったりしました。
中学3年の頃には臭いが分からなくなったり、授業中に目が痛くなり涙がとまらなくなったことがありました。
学校は大好きなので休みたくなく、毎日のように身体は痛かったですが、我慢して通学していました。
―高校1年の頃急激に症状が悪化しました
8月頃に突然右足と左足の膝がガクンとして力が入らず歩行が難しくなりました。その翌日には両足に力が入らなくなり、その後立ち上がることもできなくなりました。
昨日できていたことが急に出来なくなる恐怖で、夜寝るときには目を閉じたら翌日目を覚ますことはないんじゃないかと眠れない日が続きました。
―病院で診察してもらっても原因は不明でした
整骨院から総合病院、大学病院まで次々と病院を回りましたが、原因も治療法も分かりませんでした。
精神的ストレスや心因性が原因ではないかと言われたこともありましたが、思い当たるストレスはありませんでした。
歩けるようになることを諦めたくなく、リハビリを始め、痛みをこらえながらなんとかゆっくりとぶるぶると震える足で歩けるようになり、登校を再開しましたが、歩くことで精一杯だったので、通学は両親に車で送ってもらい、学校の行事には参加できませんでした。
―進学も難しく夢も諦めざるを得ませんでした
その後、リハビリを続けても症状はよくならず、進学も就職もできず自宅療養という形で卒業することになりました。
昨年末には障害者認定を申請し、上肢と下肢の機能不全等で1級の認定が出て手帳を交付されました。
―ワクチン接種が人生に与えた影響は最悪です
一言でいうと、最悪です。大好きなスポーツも友達との時間も学校行事もすべて奪われました。副反応の症状がでてから、自信がなくなってしまって、何もできなくなってしまい、強い劣等感を感じて、友人たちとうまく話すこともできなくなってしまいました。
―この先の幸せまでは奪わせません
私は、あきらめなければならなかったこと、苦しいことがいっぱいありましたが、私は弱い人間ではないので、心だけはぼろぼろにならないように、常に前を向いて、目の前の小さなチャンスを逃さず、強く、前を向いて生きてきました。
今後も前を向いて強く生きていこうと思いますが、私の力には限界があります。治療法の確立もそうですし、治療費を稼ぐにも限界があります。ですので、裁判官の方々には、今後も私たちが安心して暮らせるように、私たちの未来を支え、明るく照らしてくれるような判決を下していただくよう、心から望みます。
===原告52番さん本人尋問
―ワクチンを接種した後、様々な症状が現れた
高校1年生の1月に1回目、3月に2回目のワクチン接種をしました。その後、発熱、吐き気、腹痛、倦怠感といった症状が出てきてしまいました。特に、視界の状態がおかしいような症状が出て、視界が上下に揺れる、船に乗っているかのような状態が出てしまいました。
―高校生活も困難が続いた
そのような症状が続いてしまったので、通っていた通信制の高校を普通に続けることが難しくなりました。通信制の高校なので、学校へいくスクーリングの日は限られていたのですが、それでもスクーリングはできなくなり、一度休学をせざるを得なくなりました。頑張って復学をした後も症状は治まらず、半ば寝たきりのような状態が続きました。
―進学も簡単ではなかった
高校卒業後、動物が好きだったので、トリミングの技術を学ぶ専門学校に進学をしました。しかし、症状が続いたために、大きな犬を持ち上げることができなかったり、ブラッシングを行う動きができませんでした。そのため、専門学校は退学せざるを得ませんでした。
それでも普通の生活をしたい、勉強をしたい、医療の道に進みたい、という気持ちから、理学療法士の勉強をする大学へ進学をしました。しかし、めまいや記憶障害がひどく、周りの学生についていくことができず、また学校をやめることになりました。
それでも私はあきらめきれず、医療事務の専門学校に進学をしました。この専門学校は卒業することができて、卒業できた時は涙が出るほどうれしかったです。
―就職もうまくはいかなかった
専門学校を卒業後、入院病棟のクラークで働くことになりました。先輩と二人で病棟を回り、患者さんの入退院の手続きをしたり、看護師の話を聞いて検査を出すことをしたり、電話対応をしたりしました。
しかし、記憶障害の症状はあり、仕事に支障が出てしまいました。残念でしたが、仕事を続けることはできないと思い、仕事ができたのは半年でした。
―学校や生活、夢、すべてをあきらめた
夫に対しては、結婚してすぐ要介護状態になってしまい、申し訳なく思っています。私でない人と結婚したらと思うと、そうした方がよかったのではと思うこともあります。母親に対しても、本来はもっとバリバリ働けるのに。子どもだっていたかもしれないのに、かなえられず、本当に申し訳ないです。
接種したのは、16歳の時でした。それまでは、病院にかかるのは風邪の時ぐらいで、健康そのものでした。ワクチンを接種してからは、一変して、病院通いが欠かせない体になってしまいました。おそらく、病院通いは一生続きます。
本来ならば、学校生活、青春を謳歌したり、将来の夢だった美容師にもなりたかったし、仕事だってもうちょっと続けたかった。普通の人生を送りたかったです。29歳になります。何もできない29歳になってしまいました。悔しいし、やるせないです。私の13年間を返してください。どうか治療法を見つけてください。過去が暗いものになってしまった分、未来だけは明るいものになることを願っています。
それぞれの原告の皆さんに対する被告企業からの反対尋問は、カルテに記載されている内容を確認することの繰り返しや、些細な事実についての質問に終始しました。原告の皆さんはきちんと質問に答え、不適切な誘導となる質問には誤った印象を裁判所に与えないよう、適切に回答をしました。
期日前に行われたリレートークでは、東京原告15番さんや、HPVワクチン薬害訴訟を支える会・沖縄の渡辺優子さん、東京原告土岐梨奈さんのお父さん、HPVワクチン東京訴訟支援ネットワークの隈本邦彦さんにお話しいただきました。
【期日前リレートークの様子(左上:土岐さん、左下:隈本さん、右下:渡辺さん)】
尋問後の報告集会では、弁護団の32番さんの担当であった木下弁護士、27番さんの担当であった鮎京弁護士、52番さんの担当であった河村弁護士から、それぞれの原告さんの症状の状況や、尋問の様子について報告がなされました。
また、東京原告平原沙奈さんと原告21番、HPVワクチン薬害訴訟を支える会・沖縄の渡辺優子さん、富山大学の林衛さんから、本日の傍聴についての感想をいただきました。さらに、HPVワクチン東京訴訟支援ネットワークの隈本邦彦さんから近時の情勢についての報告や、新たに作成した動画である、『教えてカナリアン』(https://www.youtube.com/watch?v=SLCRz3a357k)の紹介や、ワクチン薬害訴訟を支える会・大分が作成した書籍『HPVワクチンのほんとうのこと』(https://oita-sien-hpvw.amebaownd.com/) の紹介を行っていただきました。
【尋問の様子を報告する木下弁護士、鮎京弁護士、河村弁護士】
訴訟期日後の記者会見には、尋問に立った原告27番さんが出席し、弁護団と一緒に、尋問の感想や内容を語りました。
(27番さんの発言)
「本日改めて裁判官の方々がいる前で自分の想いだったり症状等を訴えることができてよかったなと思っています。今までも様々な場面で自分の症状や思いを伝える場面はあったんですけれども、裁判官のいる前で喋るということは正しい証言になりますので、その点はとてもよかったと思います。
反対尋問につきましてもストレスからくるものかという訴えに対してしっかり否定することができて良かったと思います。」
【記者会見に臨む原告27番さん(中央)】
次回の東京訴訟の期日は2024年11月18日(月)です。
被告申請の証人尋問が行われます。
引き続き、ご支援をよろしくお願いします。
<東京訴訟の次回弁論期日>
11月18日(月)13時30分~ 被告証人尋問