2022年12月22日のHPVワクチン薬害名古屋訴訟の口頭弁論で、名古屋原告14番の女性が法廷で行った意見陳述の全文です。
意 見 陳 述 書
2022(令和4)年12月22日
名古屋地方裁判所民事第7部合議B係 御中
原告番号14番
1 私は、中学1年生から2年生にかけてサーバリックスの接種を3回受け、現在は25歳になりました。接種前は、吹奏楽部でチューバやスーザフォンを吹き、塾やピアノ、習字にも通う普通の中学生でした。何の不安もなく、保育か医療関係の仕事に就きたいと考えて勉強に取り組んでいました。
2 そんな頃、中学で配られたワクチンの案内を目にして、子宮の病気を予防できるならばと、家族で話し合って接種することにしました。
3回目の接種の少し後から、経験したことのない強い生理痛や、左腕の痛み、しびれを感じるようになりました。腕に力が入らなくなり、楽器を持てないこともありました。怪我をした覚えもなく、一時的な疲れや筋肉痛とも違う症状が続き、戸惑うばかりでした。
3 高校は介護や福祉の分野へ進むためのコースがあるところを選びました。
進学後も症状は改善せず、痛みやしびれの症状は、右上肢にも出るようになり、じっとしていても涙が出るくらいの激しい痛みが全身に広がりました。手足に力が入りにくくなり、歩くことにも支障が出ました。痛さのあまり、意味のある言葉を発することもできず、うなりながらただ耐えているしかないことさえありました。それまでになかった喘息の症状も現れました。
高校入学前からも、どうしてこんなに物を覚えられなくなってしまったのだろうとは感じていましたが、高校では、授業の予定や教室の場所など、当たり前のことさえ覚えられなくなりました。自分でも明らかに記憶力がおかしいと気付き、とても不安になりました。
ひどい眠気と倦怠感で起き上がることも難しい日が続き、調子の悪い日も、母に送ってもらったりして可能な限り登校しましたが、教室では座っていることも難しく、実習用のベッドに横になって授業を受けることもよくありました。
夢を抱いて進学したのに、私の高校生活は、症状に苦しんでいた思い出しかありません。
4 同級生が大学などへ進学する中、私は留年せずに3年間で卒業するだけで精一杯でした。1校だけ専門学校の面接になんとか出向いたのですが、体調が安定しないと入学は無理と言われて、泣きながら帰ってきました。高校卒業後は予備校に通う体力もなく、体調の良い時間を自宅でつなぎあわせながら、1人で勉強を続けました。もう無理かもと何度も思いましたが、翌年に何とか医療関係の大学に進学できました。
5 大学生活も症状との戦いでした。足に力が入らないため、つま先を引っかけて転んでしまいます。膝が突然抜けたようになって転ぶこともあります。転んでも手にも力が入らず受け身が取れません。とても危ないので、足首を固定する装具を両足につけるようになりました。家を出るときに確認したはずなのに、駅のホームや乗る方向が通学の途中でわからなくなることが何度もありました。腕の痛みやしびれがあまりにひどいときには、腕を切り落としてしまいたいとさえ思うことがありました。
6 中学生のころから、何とか治療ができないかと願っていろいろな病院を受診してきました。最初は左腕の神経障害が疑われました。不全片麻痺、頚腕症候群、ニューロパチー、ファブリー病、気管支喘息、線維筋痛症など、様々な病名で診察を受けましたが、診断は付きませんでした。大学病院の神経内科でこれまでの経過を確認してもらい、脳血流の画像検査などを総合すると、ワクチンに関連して免疫の異常が生じているのではと指摘され、免疫を抑える治療や薬の服用を開始しました。酸素飽和度が下がることがあるので、酸素療法も続けています。
免疫を抑える治療や薬は、いろいろな免疫の病気の治療のために以前から大学病院などで行われてきたものです。治療を受けると、脱力や痛みなどの症状はかなり軽くなり、異常な疲労感からも回復しやすくなると感じます。しかし効果は長続きせず、数ヶ月で悪化してきますので、定期的な治療が必要です。
地元にはこうした専門的治療に対応できる病院がなく、遠方の大学病院まで出向く必要があります。長距離の移動で家族にも負担をかけました。入院が必要な治療もありますので、大学の長い休みは毎回入院にあてました。そのため、春休みに行われるインターンシップなどの、就職活動のための大切な行事にも参加できませんでした。将来が見えない不安に駆られながら、病院に大量の教科書などを持ち込んで勉強しました。病室の消灯後も、灯りのある場所を探して勉強しました。みんなのように、いろんな場所へ足を運べない私にとって、採用試験に向けた勉強だけが唯一できる就職活動でした。
7 今、私は病院の臨床現場で働いています。努力が実ったといえるかもしれませんが、現実は大変です。脱力で転ばないよう、両足の装具は今も使い続けています。仕事中は酸素療法も制約されます。身体の痛みや頭痛などと闘いながら仕事をこなし、いつも帰宅すると倒れるように眠ってしまいます。異常な倦怠感に襲われ、食べ物を噛む動作でさえ疲れてしまって食事を続けられないこともあります。
社会人になってからは、入院して治療を受けることも難しくなりました。何とか都合を付けて入院しても、効果は長続きしません。
8 私は、この身体を治したいと願ってきました。でも国は、私たちのような症状を免疫とは関係ないと言って、免疫の病気としての根本的な治療法を開発しようとはしてくれません。
副反応であることを認めてもらうことすら、とても困難です。ワクチンの副反応ではないかと思うと言っただけで、心ない人からSNSで詐病だ、嘘つきだと、ののしられたこともあります。
今日、私がここで話すことには、とても勇気が必要でした。
自分におきたことを伝えるだけなのに、どうしてこんなにも恐れを感じなければならないのでしょうか。
毎日の症状だけでも心が折れそうになるのに、誰も助けてくれないという気持ちに襲われることが、どれだけつらいことなのか、想像できますか。
9 私の学生時代の記憶には欠けている部分がたくさんあります。いつまた記憶がなくなってしまうかと怯えながら生活をしています。記憶があるうちに、仕事ができるうちに少しでも仕事がしたいと、すがるような思いで1日1日働いています。ささやかな楽しみや遊びなども全て諦め、休める時間は全て休養にあてて、仕事のための体力を回復するようにしています。
ずっと夢だった医療の仕事だからこそ、ここまで頑張れていますが、その大事な仕事さえ、いつか失うかもしれないと思うと恐ろしくてなりません。
全ての努力を尽くしても、いつ症状が悪化して、今ギリギリで維持している生活が壊れてしまうか分からない、記憶がまた無くなってしまうかもしれない。その怖さを、分かっていただけるでしょうか。
私の願いは、治療法が見つかり、経済的な不安なく、そうした治療を受けられるようになることです。そして、同じように苦しむ人が出ないように、どうしてこのワクチンの問題が起きたのか、この裁判で明らかにしてもらうことです。
そのためにも、私に起こったことを裁判官に知っていただきたいと思い、意見を述べることにしました。
私の気持ちが伝わる事を、心から願います。
以上